2010年8月28日土曜日

バルザック記念日 (ミーチャのアルバムより)

 ミーチャはとうとうバルザック全集を手に入れた。古本街をぶらついているときに、安く売りに出されているのを見つけて即座に購入を決意したのだ。その二日後に、大きな段ボール箱にぎゅうぎゅうに押し込まれたバルザック全集が届いた。この一箱の中に巨大な世界が隠されているのだ、とミーチャは思った。

 ミーチャがはじめてバルザックを読んだのは、ちょうど一年前の夏だった。それは、誰しも身に覚えがあると思うが、何となく人生に裏切られたような気がして胸の疼く日だった。ふとミーチャはもう一度『ゴリオ爺さん』に挑戦してみる気になった。今まで幾度か手にしては、その度に冒頭のくだくだしい描写にあっさり匙を投げていた本だった。だがその日は、そのくだくだしさにも耐えられるような気がしたのだ。

 三十分後、ミーチャは今までの自分の非を悟ることになった。今まで目にしたことのない激しすぎる情念のドラマが、そこに描かれていた。夢中になって読み進めながら、ミーチャは自分の胸の中に地震が起こったかのではないかと思った。「地震! それは愛の秩序までひっくり返すものと見える」。青臭い、世間知らずの青年にとって、それはまさに地震のようなものだった。いわば、ゴリオ爺さんとヴォートランがラスティニャックに果たした役割を、バルザックがミーチャに対して果たしたのであり、そしてバルザックほど世界を教える教師としてふさわしい者はいなかった。安易に過ぎる日常にあって誇るべき経験を何も持たない青年に、バルザックは世界の栄光と悲惨を惜しげもなく描いて見せた。もちろんミーチャの周囲の世界は、バルザックのパリに比べればはるかに慎ましいものだが、それでも青年にとって世界は常に闘争の場である。バルザックの世界を知ることで、ミーチャは自分の世界を相対化するまなざしを獲得したのであり、それはほとんど強さといってもよかった。

 ミーチャは届いたばかりの全集から早速一冊を選び出し、読み始めた。「ド・カディニャン公妃の秘密」。バルザックの人物再登場の手法が最大限に生かされた中編である。懐かしい顔が多数登場する。かつての軽薄な社交界のダンディたちが今や大物政治家になり、若々しい高潔な情熱に燃えていたセナークルの面々もそれぞれの道を歩んでいる。リュシアンやクレティヤンは、もうこの世にいない。ヒロインは先のモーフリニューズ公爵夫人、現カディニャン公妃だ。「パリでは、善きにつけ悪きにつけどんなことでもできぬことはないが、こうした怪物的なパリが作り上げた最もすぐれた女の一人であったあでやかな公妃は、夢に描いた天使となった。もっともこうした形容は、不幸にして非常に俗悪になってしまったが」。いかにもバルザックらしい文章を目にして、ミーチャは興奮した。

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