「……知り合いの〈饂飩男〉の話なんだが、それじゃ、小説のスタイルでやらせてもらおうかな」
カワギシエフスキーは言って、朗読するような調子でやりはじめた。
* * *
小学四年の秋以来、国語の授業やらで話題が漱石の名作に及ぶ度に喬は「おまえは猫か」とからかわれ続けてきた。彼があの高名な猫と「名前はまだない」という点で共通していたためである。勿論、喬というのは立派な名前だ。それでいてなぜ「名前はまだない」なのかというと、種を明かせば、それは喬の苗字がじつに珍しい馬田内なるものであったという真実に由来する。確かに名前はまだない。
はじめて「猫」と囃されてから十年近い時が、三年ほどに感じられる短い間に流れた。そのある年の秋のじめじめした深夜のことである。四五時間前に降った小雨の水玉を土埃まみれの葉の上に奇妙につやつやと戴いたホウレンソウ畑の用水路で、馬田内喬が山椒魚に似た生きものの一群に包囲されるに至った顛末を明らかにするには、まずは喬の一族の一風変った出自を語らねばなるまい。
(この間、4000字あまり省略。全容は来るべき第7号創作特集号で明かされよう)
九月十八日の午前二時、玉川上水を臨む木賃アパート二階の一室から、死にかけたノラ猫のように惨めで胡乱な影が星も見えない夜空の下にこそりと這い出してきた。十六日深夜の獲物(大根五本、葱四本、キャベツ二玉)はすべて生のままか、あるいは茹でられ醤油だけで調味されて喬の胃に収まり、大半が既に消化管をめぐる旅を終えどこか地中の下水管のなかにまどろんでいた。新たな獲物を求め、喬は仲秋の夜の大気を農協の仕掛けた罠に向かって泳ぐように突っ切っていく。上水の鯉がぼちゃんと跳ねた。
* * *
「まだ続くんだが、今日はここまで。」カワギシエフスキーはそう言って話を切りあげた。
十分もかけておいて、ほんの導入部に過ぎないのであった。
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