2012年9月30日日曜日

長い道程


イッペーオは長い沈黙の後、言葉を一つずつ選びながら語り始める。

彼は逃亡生活を送っていた。日中は顔を隠すように帽子を目深に被っていた。真夜中だけが彼を安心させた。その長い道程の果てにここへもう一度戻ってきたんだと彼は強調する。

彼は一つの書物を取り出した。それはボロボロに擦り切れた革表紙の日記だった。彼は徐にページを開き、それを読み始めた。その時。いつもは騒がしい連中も彼の声に静かに耳を傾けたのだった。



私について考える日記を書きたいと考えている。だけど、それはどんな日記になるのか、分からない。簡単なメモみたいなものかもしれない。けれど、そんなことはどうでもいい。私は誰なのか?
そんなことは誰かにとってみれば取るにたりない事象だけど、私にとっては切実な問題だ。私は自分が死ぬ時のことを考える。死んだら私と私を取り巻いていたひとたちの関係はどうなるのだろうと考える。例えばの話だが、私を嫌ってる人がいて、その人は私の死を反芻したり、あるいは少しは悲しんだりするんだろうか?そんなことは誰かにとってみれば取るにたりない事象だけど、私にとっては切実な問題だ。私は自分が死ぬ時のことを考える。死んだら私と私を取り巻いていたひとたちの関係はどうなるのだろうと考える。例えばの話だが、私を嫌ってる人がいて、その人は私の死を反芻したり、あるいは少しは悲しんだりするんだろうか?そうして、私がこの日記が解かれることがなければ、私が死んだ後、この日記は誰にも見られない。恐らくそうだろう。言葉だけがそこにある。それが半永久的に、人間がいる限り、この日記は単純にいえば生きつづける。では?日記の葬式はないだろう。誰かがやってくれたりするのだろうか?日記のお墓を作って、お盆にはお参りにきてお供えして、線香あげて話しかける。そんなことはないだろうから、そのまま生きたテイで日記だけが、存在する。そう考えると、生きた爪痕を簡単に残せるのが、日記なのではないか。そう思ってこの日記を始めよう。どんなかたちになるのか分からないけれど、大袈裟にいえばこれから私の生きた証を残していく。残り少ない人生の誰にも見られないのかもしれない、言葉を少しは残せればよいのかな、と思う。


こんなふうに言葉にしたりするのだろうか?
つまり、私の死は私にとってどうでもよいことなのに、私の取り巻くひとたちにとっては結構大事なことになったりする。そして時間をかけて弔ったりする。しちめんどくさい弔う儀式もしたりする。派手にぱっと葬式をやってみたり、ごく身内で簡単にすませたりする。