ケイシー・ツボノヴィッチは語り終えた。沈黙が辺りを支配した。ソーニャが先刻とは打って変わった静かな調子で言った。「そう、過去は突然思いがけない形でやってきて、あたしたちを脅かすのね。過去を振り捨てるのは難しい。でも、それでもあたしは過去を捨てたいの。思い出さなければ、それは存在しないのと同じなのじゃないかしら。」
その予期しなかった内省的な口調に、一同は驚き、そして胸を打たれた。いつまでも続くかと思われた沈黙を破って、イッペーオが言った。
「よかったら、次はソーニャさんが話しませんか?」
ソーニャは首を横に振った。その顔には神経質な笑みが浮かび、口調は蓮葉な調子を少し取り戻していた。
「あたしには語るべきことは何もないわ。あたしは今日過去を置いて来たの。あたしにはもう過去はないのよ。だから、話すことは何もなくて、ただみんなの話を聞いていたいのよ」
とその時、今しがた店に入ってきた若い男が、セラピオン兄弟のテーブルに目をとめると真っ直ぐ近付いてきた。ジャンゴという名の、本郷通り界隈をふらついている不良だった。黒いぴったりしたズボンをはき、明るい色のシャツを幾分くずし目に着ている。頭にはつばの短いカウボーイ・ハットを斜めにかぶっている。きれいに磨き上げられた黒い拳銃の握りがガン・ベルトから突き出ていた。自分を伊達男だと思いたがっている男だった。チムニーにはあまり来ないが、たまにやって来ると学生たちにしつこく絡んで一悶着起こすのが常だった。今日は悪いことに、すでにかなり引っかけてきたらしかった。
彼の姿を認めたとき、ソーニャがはっとした表情を浮かべた。そして投げやりな調子でぼそっと言った。
「さっそく過去の影がやってきたようね」
ジャンゴはソーニャの真横に立つと、見下すような目つきで一同をにらんでから言った。
「おい、隣町のクラウディアじゃねえか。何でこんなところにいるんだ。この子羊みてえな男たちは何だあ?」
「おい、隣町のクラウディアじゃねえか。何でこんなところにいるんだ。この子羊みてえな男たちは何だあ?」
「あたしはソーニャよ」
「ソーニャ? バカ言ってんじゃねえ。お前はクラウディアだ。まさかクライトンとこから逃げてきたんじゃねえだろうな」
「ほっといて」
「ふざけるな。俺が連れ戻してやる」
ジャンゴはソーニャの片腕を取ると、無理やり引き立てにかかった。ソーニャは机の端を握り締めて抵抗した。ケイシーがおもむろに立ち上がると、男の腕に手を置いてゆっくりと言った。
「おい、よさないか。彼女は君と一緒には行かない」
ジャンゴは、折よく憂さを晴らす機会が転がり込んできたのを喜んで、待ってましたとばかりにケイシーの方に向き直った。
「おい、生意気な口を聞いてんじゃねえ。俺はこいつをこいつの居場所に連れ帰ろうとしてるだけだ。口出せねえ方が身のためだぞ。それにお前はこいつの何なんだ?」
ケイシーはためらわず答えた。
「彼女は僕の優しい人だよ」
その答えを聞いてジャンゴは癇癪球を破裂させた。
「俺をからかってやがるな!」
そしていきなり腰の拳銃に手をやった。固唾をのんで一部始終を見つめていた客の間に悲鳴が上がった。ジャンゴがまさに拳銃を抜こうとした瞬間、カワギシエフスキーの鮮烈な拳が宙を飛び、ジャンゴの顔面をとらえた。ジャンゴはあえなく床に伸びてしまった。
「一丁上がり。アハハハ」
カワギシエフスキーはケイシーにウィンクをして見せた。(続く)
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